卒業式の袴 | 徒然なるままに~ブライダルのあれこれ

卒業式の袴

はかま  卒業シーズンが終わり、これからは入学式です。

3月中は地下鉄の中にも袴姿の卒業生がよく見られました。


私も大学の卒業式は袴姿でした。黄色の訪問着に濃紺の袴。

当時は、ピンクの色無地が流行っていて、卒業生の9割がピンクの着物に紫の袴。残りの1割は黒紋付に袴、矢羽根の着物に袴、洋服。

卒業写真は文学部の国文学科だけでも100名以上いるため、顔は豆粒ほどの大きさ。虫眼鏡でないと判別つきません。でも私はすぐに分かります。黄色に紺という組み合わせは一人しかいなかったからです。この頃、既に「人と同じは嫌」という性格だったようです。当時、ベリーショートの髪型だった私は、『水前寺清子(演歌歌手の)みたい』と言われました。

卒業式が終わると、大学の近くのデパート(三越星ヶ丘店)に行きました。4年間お菓子売り場でアルバイトをしていたので、お世話になった方々に挨拶するためです。同じ売り場でアルバイトをしていた友達も一緒です。その後、私は栄の三越本店にも行きました。ここでもお世話になった方に卒業の報告をしました。

卒業』というのは、自分のことではありますが、親にとっても、まわりの方々にとっても『卒業』なんですね。お世話になった方々に、まだ何もできないけれど、晴れ姿を見ていただいてご挨拶をすることが1つの恩返しになるのかもしれません。


先日のブログで、袴の足元には「足袋に草履」派と「ブーツ」派があるということを書きました。

ご意見もいただきました。

袴の歴史をひも解いてみると、平安時代以来、高い階級の女性たちが着用した袴ですが、鎌倉時代には衰退して宮中以外では見かけなくなり、明治時代になって仕事をする女性たちや女学校の開設と共にポピュラーなものになりましたとはいえ、明治から大正にかけて女学校に通う女性といえば、裕福で限られた階層でもありました。ハイカラさんのイメージで、女袴が大正時代の女学校スタイルというイメージで捉えられていますが、本来は女学校の教官が着用したもの

現在の女袴は明治18年に華族女学校の校長下田歌子の発案とされていて、宮中の未婚者の色である濃き色から海老茶色を袴に採用したそうです。当時の人々は海老茶色の袴をはいた女学生が洋書を小脇にして往来する姿を、紫式部になぞらえて「海老茶式部」と呼んだといわれています。また袴姿で有名な宝塚歌劇団が創設されたのも大正時代、黒紋付きに緑の袴が正装で、卒業式はもちろんセレモニーの際には全員が袴姿で装います。

着物から洋服へと時代は移っていき、女学生の制服だった女袴も洋装の制服へと変わっていきました。また女袴を着用していた女教師も動きやすい洋装へと変わっていき、女袴は廃れていきました。 ただ、教師たちの中では、正装として袴が残り、次第にそれが卒業式にのみ着用されたのではないかと。 短大や大学の卒業式で袴が用いられるようになったのも近年のことだと思います。

こんな歴史から考えると、やはり足袋に草履姿の方がふさわしいように思います。


というように、袴といえば、宝塚

黒紋付の着物に濃緑の袴は、宝塚の正装です。

宝塚音楽学校に入学してまもなく、新入生たちはこの姿で「すみれ売り」をします。

募金のためですが、袴姿を始めて一般の方たちにお披露目します。この頃から熱心なファンの方たちは、新たなスターを発掘し、応援して行くそうです。

式典や改まった場所、そして卒業式等、正装で臨む時の衣装です。

宝塚歌劇団で活躍したスターたちの退団のときも、最後はこの袴姿で旅立っていきます。

あの黒木瞳さんも、大地真央さんも、天海祐希さんも皆そうです。

足元はやっぱり真っ白な足袋に草履です!!